「書く」ことは、自分と向き合うためのひとつの物差し
[金子 聖子 さん / かな書道]
2024/9/30
平安時代に生まれた「草仮名」を用いて、色紙や扇面、軸などに字を書くかな書家、金子聖子さんをご紹介します。
展覧会向けの創作を中心に、かな書家として活動しています。日展、読売書法展、社中展など、年間約5作品。それ以外にも講師を務めている書道教室で、受講生の皆さんに百人一首などの手本を書いたりしています。大河ドラマ「光る君へ」で、主人公が歌を書いているシーンをイメージして頂くとわかりやすいかと思います。平安時代から使われたとされる「草仮名」などを用いて、綺麗な模様や砂子がちりばめられた料紙に、短歌を書く細字の作品が多いです。小さな色紙サイズから扇面、軸、縦60cm×横180cmなどの大きな額作品まで、多種多様な作品創りにチャレンジしています。
多くの作品や古典を見ることが基本です。現代の書家の作品をはじめ、古典作品の展覧会など多くの機会がありますので、できるだけ足を運んで「目習い」をしています。「良いものを見る」ことで新たな発見や学びはもちろん、感性が刺激されてアイディアが浮かぶことが多いです。「こんな字や作品が書きたい」「自分だったらこうするな」など、率直な気持ちに従います。題材は、万葉集や古今和歌集等になってしまうことが多いのですが、それでも自分の中に湧き上がるテーマによって選択する歌が変わりますので、毎年違った作品ができます。一方で、書の作品だけでなく、絵を見るのも好きですし、綺麗に盛り付けられた料理も楽しいです。月に1回は日帰りでもプチ旅行をしてリフレッシュします。何かに感動する「くせ」を身につけていることも、アイディアが浮かぶための良い影響となっているように思います。
書道を始めた頃は、師匠からいただいた手本を忠実に再現することにとにかく必死でした。最近になって気づいたのは、手本は書いた人の感性で書かれたものであり、当然レベルも違うので、どうやっても自分の作品にはなりえないということ。やはり好きな書風というのもありますし、自分の癖(良い所も悪い所も)もあるので、自分のエッセンスをどこに注入するか? ということを心がけています。それは字というよりも、筆や紙のセレクト、墨色に反映されることが多いです。例えば春の歌には、淡いピンクや緑の紙を選んだり、紙にあう墨色にしたり、やさしい風合いがでる毛質の筆を用いたりします。ですから、筆はかなりの種類と本数をもっています! とはいえ、好きな筆というのはあって、その筆に任せておけば大丈夫! 書けない時は自分の技量やメンタルのせい、という感じでしょうか。
創作の楽しさもさることながら、私にとって「書く」ことには多くの意味があります。ご存じの通り、社会生活のストレスの原因第1位は人間関係。私もそうでした! 24時間心休まる時がなく、このままでいいのかと途方に暮れたこともありました。でも「解決するのは自分でしかない」「じゃあどうするのか?」と考えていた頃に書道と出会って気づいたのが、「自分と向き合う大切さ」でした。書には「今」の自分がもろに表れます。書いた字を見て自分を冷静に客観視し、今の状態を知ることができるようになりました。つまり私にとって「書く」ことは、自分と向き合うためのひとつの物差しなんです。もう1点あげるとすれば、観察眼を磨くことでしょうか。臨書(手本をまねて書く)をして先生に指摘されると、ちゃんと書いているつもりでも、見えてないことがいかに多いかに気づきます。線の太さ、長さ、折れ具合、線と線の空間など、やればやるほど気づきが多いのです。観察眼を磨くためにも「書く」ことは欠かせないものとなっています。
今を楽しむ!という思いです。今の自分を精一杯出すことで、うまくいってもいかなくても、満足感と共に自分と折り合いをつけることができます。そうすると自分を少しずつ受け入れることができ、新たな目標も生まれます。こうした「成長のプロセスでこそ、創造力が養われる」と感じています。ただただ書道が好きで、書ける環境があることは、本当にありがたく幸せなことだと常々感謝しています。それを当たり前と思わずに書けるうちは書いていきたいですが、人生は何がおこるかわかりません。万が一新たな挑戦をしなくてはならなくなった時、きっと「今の自分を楽しむ」気持ちが、変わらず力の源となると信じています。
photoトップメイン:万葉集「なつのゆくをしかのつののつかのまもいもがこころをわすれておもへや」ほか1首を書いた扇面帖作品。 photo1:新古今和歌集の帖作品。photo2:百人一首を2×6尺に展開した作品の部分。photo3:万葉集を書いた帖作品の部分。 photo4:手本の作成過程。 photo5:お気に入りの筆たち。
この記事をシェアする