[Limited Edition]Juice up×ならの イロとインキの旅

Juice up×ならの

PILOTのJuice upとイラストレーターならのさんがコラボレーションし、オリジナルデザインのボールペン6種を期間限定で発売します。

ならの フリーランスイラストレーター 大阪府在住。台湾、大阪での保育士勤務を経て2019年9月よりイラストレーターとして活動開始。あたたかでどこか切ない世界観と子どもを描くことが好き。

[オリジナルストーリー]イロとインキの旅 -あらすじ-

あるところに、精霊によってもたらされる特別なインキを使って色をつけたり、あらゆるものを直したりできる人々がいた。その名は“塗師(ぬりし)”。
生活と世界に彩りをもたらす塗師たちは、さまざまな国で活躍し、また重宝される存在であった。
中央の国の、とある小さな村。そこではそんな塗師の父と母、そしてその娘であるイロという少女が暮らしていた。イロは塗師に憧れて父のもとで修業をしている。
そんなある日、イロは夢の中で精霊と出会い、父が大切にしているインキ瓶をうっかり壊してしまう。
「心配することはないよ、イロ。君に新しいインキ瓶を授ける。旅をして、それぞれの国の精霊に会い、インキ瓶を満たしてもらっておいで。」
イロは、精霊に言われるまま、インキを探す旅に出ることに。
六つの国を巡りながら、“塗る”ことを通して精霊たちと心を交わしていく。
主人公イロの冒険を描いた心温まるファンタジー作品。

ラインアップ

Juice up 0.4mm 6種

  • 森の国の商品画像
  • 花の国の商品画像
  • 海の国の商品画像
  • 水の国の商品画像
  • 宝石の国の商品画像
  • 雪の国の商品画像

各330円(税抜価格300円)

イロのかばん

ジュースアップ6種、ポストカード1枚、地図1枚、ストーリーブック1冊(プロローグ~3章)

イロのかばんの商品画像

3,300円(税抜価格3,000円)

  • Juice upレギュラーラインアップ
  • お店によって店頭に並ぶタイミングは異なります。
  • 数量限定商品のため、お店によっては売切れている場合がありますので、商品在庫につきましては、店舗にお問い合わせをお願いいたします。

オリジナルストーリー イロとインキの旅

主人公イロ 平凡な田舎町で生まれた一人娘。色が好きで将来は塗師(ぬりし)である父の後を継ぎたいと思っている。ある事件をきっかけに色を探す旅に出る。
インキ瓶 インキが保管されている瓶。このインキが建物から衣服まで人工物のすべての色のもととなっている。精霊に守護されている。
精霊 インキをつくり出している精霊。それぞれの国にいると言われており、色を生み出すのに重要な役割を担っている。

オリジナルストーリーの楽しみ方 読みたい章のインキ瓶をタップまたはクリックしてください。

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製品仕様の詳細

プロローグ

あるところに、イロという少女がいました。イロは、母親と、塗師をしている父親との三人で暮らしていました。

塗師とは、特別なインキを使ってすべてのものに色を付け、新しいものを生み出したり、ぼろぼろになってしまったものをよみがえらせる、とても重要な仕事です。
イロはそんな父親に、なにより、塗師という仕事にあこがれていました。

塗師が使うインキは特別なもので、精霊によってもたらされ、塗師でないと扱うことを許されていません。普段は、街はずれのほこらの中にインキ瓶に入れて保管してあり、必要なときに、必要な分だけをくみ出して使う決まりです。

ある日、イロは父親に連れられて、そのほこらにやってきました。そこには、たくさんのインキ瓶が、入手できる地域ごとに小箱に分けられ、きっちりと並んでいました。
イロは父親がインキ瓶から丁寧にインキをくみ出すのを見ながら、自分もそのインキを使って色を塗ってみたいなと考えていました。

その夜、イロは夢を見ました。一人でほこらの前に立っていて、目の前にはあのインキ瓶たちが並んでいます。

「イロ、さぁ、自由に塗ってごらん。」

インキ瓶がイロに語りかけてきました。
ためらいながらも手近にあった小箱を一つ手に取ると、中に入っていたインキを使い、目につくものすべてに色を塗り始めました。
顔や服にインキが飛ぶのもかまわず塗っていきます。
無我夢中で手を動かしているうちに、勢い余ってインキ瓶を、持っていた小箱ごと地面に落としてしまいました。

瓶の割れる音でイロはわれに返りました。
インキ瓶の中には「精霊のカケラ」が入っていて、それがある限りどんなにインキを使っても尽きることはありませんが、瓶を壊してしまうと元には戻りません。
大変なことをしてしまったと呆然と立ち尽くすイロの前に青年の姿をした精霊が現れました。

「心配することはないよ、イロ。君に新しいインキ瓶を授ける。旅をして、それぞれの国の精霊に会い、インキ瓶を満たしてもらっておいで。」

それだけ言うと精霊はすぅっと姿を消しました。

「ちょっと待って!それってどうしたらいいの?ねぇ!行かないで!」

精霊を呼び止める自分の声で目を覚ますと、そこはほこらではなく自分の部屋のベッドの上でした。
なんだ夢だったのかと布団をはがして起き上がると、体中インキまみれで、足元には精霊からもらった5つのインキ瓶が並んでいました。
夢ではなかったのです。

両親に事情を話すと、父親は、イロを叱ったりはしませんでしたが、大変なことになったと塗師仲間に連絡をしたり、仕事の依頼の調整に大忙し。
母親は、とても心配そうな顔でイロの体のインキを落とすのを手伝ってくれました。

両親の慌てふためく様子と裏腹に、イロは静かに旅に出ることを決意しました。

森の国

夢で見たことが現実となっている。
そのことはイロ本人も含め受け止め難いことだった。
夢の中だとは思っていたとはいえ、勝手に塗師のインキを使ってしまったこと、しかもそれらの瓶を壊してしまったことがどんなことを意味するか、父親の背中を見続けていたイロには痛いほどわかっていた。
何よりつらかったのは父親がイロを責めなかったことだった。

父親はイロを叱ることもなく黙ってほこらにインキ瓶を確かめにいったが、イロが話した通り、インキ瓶をしまっていた小箱が一つ地面に落ちていて、中の瓶は粉々に砕けていた。
イロが壊してしまったインキ瓶は、イロが住んでいる中央の国の近隣の国の精霊たちが与えてくれたものだった。

インキがなくなってしまっては新しいものがつくれないだけでなく、修理すらできず、街から色がなくなってしまう。
そのため、誰かがインキをもらい受けに行かなければならない。
父親は、塗師の責任として自分が出かけると提案したが、イロは、瓶を壊してしまったのは自分だし、精霊は自分に行ってこいと言っている。
精霊の言う通りにすべきと譲らなかった。

母親も最初は反対していたが、イロの真剣な眼差しに覚悟を感じ、無理をしないこと、危ないことはしないという約束で、旅に出ることを許してくれた。
両親は、地図と何日か分の食料とインキ瓶がしっかりと入るカバンを用意し、イロを送り出した。

最初に向かったのは、街の周囲を深い森で囲まれた森の国。街までの道には木々が生い茂って、昼だというのにあたりは薄暗く、イロはだんだんと心細くなってきていた。
もう限界と思ったとき、視界がぱっと開け、にぎやかな街が現れた。
木材や紙の産業で栄えているこの国は、金づちの音や、木を切るギコギコというのこぎりの音、家具職人や大工などの威勢の良い声がそこかしこから響いて、活気に満ちていた。
職人たちが黙々と作業をする様子に父親の姿が重なり早くも家族が恋しくなるイロだったが、気持ちを奮い立たせ、精霊のことを知る人がいないか街の人に声をかけて回った。
街の端から端まで歩いていろいろな人に精霊のことを尋ねて回ったが、有力な手掛かりは得られなかった。

入ってきたのとは反対側の森の入り口に差しかかったところで、どうにもヘトヘトになってしまい、道端の木の根っこに腰を下ろし休憩することにした。
すると、道を少し進んだところに誰かがしゃがみ込んでいるのが見えた。
近づくと、それは小さな男の子だった。
うっそうとした森が続いているのかと思っていたが、男の子のいるそこは小さな原っぱになっていて、緩やかに日も差していた。
イロは男の子に優しく声をかけた。

森の中で泣いている男の子を見つけるイロのイラスト

「どうしたの?迷子?」
男の子は泣いてばかりで返事をしてくれず、イロは言葉を続けた。

「私の名前はイロ。森の国の精霊に塗師のインキをもらいに行くところなのよ。」
「塗師のインキ?」

塗師という言葉に男の子はようやく返事をしてくれた。

「おねえちゃん、塗師なの?」
「えっと、私は……そ、そう。塗師よ。」
「ほんとに?やった!塗師のおねえちゃんだったらこれ直せるよね?」

そう言って男の子は頭上を指さした。
そこにあったのは、今にもちぎれそうな姿で木にぶら下がったぼろぼろのブランコだった。

誰がいつ作ったのかはわからないけれど、この森にずっとあって、子どもたちだけでなく森の動物たちまでが大事に乗って遊んでいたブランコだと言う。

「でも私、今インキも道具も持っていないの。」
「それなら大丈夫!ボクもらってくるから待ってて!」

イロの返事も聞かず男の子は駆け出しどこかに消えていった。
イロはその場を離れるわけにもいかず、ブランコを眺めながら待つことになった。
大きな枝にくくりつけられたそれは、縄に木の板を付けただけのシンプルなもので、イロがまだ小さい頃、父親がつくってくれたものに似ている気がした。

イロの父親は、誰の前でもあまり笑顔を見せない寡黙な人で、思い浮かぶのは仕事をしている後ろ姿ばかりだが、時折イロのために、おもちゃや遊具をつくってくれ、それを見た母親も、まるで自分のことのように父親の横でニコニコと笑っていた。
自分のために父親が用意してくれたブランコがとてもうれしくて、大はしゃぎで乗り、そんなイロの背中を父親は黙って静かに押してくれていたことを思い出す。

「お父さん、どうしてるかな。」
ふとイロの口から言葉がこぼれる。
「おねえちゃんお待たせ!これでいいかな?」
そこへ男の子が走って戻って来た。手渡された道具箱には、ぴかぴかのはけや筆、そして、塗師が使うインキが入っていた。

「これ、ちゃんとした塗師の道具……。こんなのいったいどこから?」
「そんなのいいから、ね、おねがい!できるでしょう?」

イロは受け取った道具箱を地面に下ろし、はけを手に取り、塗り始めようとしてみるが、どうしても最初の一筆が動かせない。
男の子に見栄を張って自分は塗師であると嘘をついてしまっている後ろめたさと、また夢の中の自分のように塗りに夢中になり過ぎてインキ瓶を壊してしまったらどうしようという思い。
そして、初めて自分が塗りを受け持つというワクワクと不安。
いろいろな感情が一緒くたになって一気にあふれ出し、心なしか手も震えている。

塗師にあこがれて、父親の手伝いではなく、一人前の塗師として色を塗ってみたいとあんなに思っていたのに、いざそうなってみると、なかなか踏み出せない自分がそこにいた。

父親の言っていた言葉を思い出した。
『イロ、よく覚えておけ。塗師はただ色を塗ればいいわけじゃない。それを見る人、使う人、その場所、それぞれの想いを色にするんだ。色は、心で、記憶で、未来なんだ。』

イロは、はけを握りしめたままその場に立ちすくんでしまった。

ハケを持ってショックを受けたイロのイラスト

どのくらいそうしていただろう。
一瞬のようにも、何時間のようにも感じられる時間が流れ、焦りだけが大きくなっていくイロの前に一匹のリスがやってきた。
リスは、何かおいしいものが入っているとでも思ったのか、インキ瓶をのぞき込み、ぴしゃぴしゃとインキを触り始めた。
当然リスの手はインキまみれになってしまった。
少しだけくんくんとにおいをかいで、食べられないとわかったのか、インキまみれの手のまま縄を登って行き、そのまま木の上へ行ってしまった。
リスの通った後には小さな手形が点々と残されていた。
残された手形はまるで小さな花のようだった。
それを見た瞬間、イロの心の中にもぱっと花が咲いたような気持ちになった。
イロは、はけも筆も全部無視して、リスのように直接自分の手にインキをつけ、リスの手形に重ねるようにして、自分の手形を押していった。
そしてそのまま服も髪もインキまみれになりながら、脇目も振らずに色を塗り続けた。

塗師のインキは、ただ色をつけるだけでなく、ぼろぼろになったものを修復してくれる力がある。
切れかかっていた縄は太く頑丈に、朽ちかけていた座板は切り出したばかりのようにピンとして、大人でも安心して乗れるほどになった。
色を塗るたびに少しずつ元の姿を取り戻していくブランコ。
最初はめちゃくちゃだった色も、何度も塗り重ねていくうちに、風景とも調和していき、まるで花壇がそのまま形になったような華やかなブランコになった。

もうこれ以上ないと手を止めたときには、明るかった空が夕暮れに染まりかけていた。
達成感で全身の力が抜け、イロが倒れるようにその場にしゃがみ込んだ瞬間、横でじっと見ていた男の子の体がふわりと宙に浮き上がり光に包まれた。
光は鼓動のように何度かきらめき、最後に一度、目を開けていられないほどに輝いたかと思うと、何事もなかったかのようにふっと消えた。
そしてそこにいたのは一人の青年だった。
青年はイロの前に降り立ちこう言った。

「イロ、ありがとう。君のおかげでブランコも元通り、いやそれ以上だ。素晴らしい。これでまたみんなが安心して楽しい時間を過ごせるはずだ。小さい頃の君とお父さんみたいにね。」

小さい子どもだと思っていた彼は、森の国の精霊が変身した姿だった。
精霊はイロに手を差し伸べてくれた。

「えっと、あなたは……?」
「あぁ、そうだった。君とは初めて会うね。私は森の国の精霊。君がこの国にインキを求めにやって来ることは聞いていたからね。だますようなことをしてすまなかった。許してくれるかい?」
「それは、大丈夫……だけど……。」
「ありがとう。君になら安心してインキを渡せるよ。イロ、瓶を出してごらん。」

イロが空っぽのインキ瓶を差し出すと精霊は瓶にふぅと優しく息を吹きかけた。
すると、チリリンと音がして小さなカケラが瓶の中に落ちた。カケラが二、三度瓶の中でチリチリと揺れたと思うと、そこからコポコポと音を立てながらインキが湧いてきた。
勢いよく湧き出したインキだが、それは瓶の9分目のところでぴたりと止まった。
「精霊さん、ありがとう。……あの、一つだけ聞いてもいい?」

「うん?なんだい?」
「あなたとは別の、夢に出てきた精霊さんがいるの。わたし、その精霊さんにインキ瓶をもらったんだけど、その精霊さんのこと、なにか知ってる?」
「うーん。そうだな……それはもう少し君が旅を続けたらきっと分かるよ。今はそれくらいしか言えない。」
「そっか…。」
「どうだい、頑張れそうかい?」
「うん。お父さんやお母さんとも約束したもの。やり切ってみせるよ。」
「よかった。まだ先は長いと思うけど、気を付けて行っておいで。」

精霊がくれたインキは森の木の葉のようなきれいな緑色だった。
イロが初めて自分の力で手にしたインキ。イロはインキ瓶をカバンにしまい、しっかり背負うと、この旅を続ける決意をし、再び歩き出す。
インキを求めるイロの旅はまだ始まったばかりだ。

花の国

インキを一つ手に入れたイロが次に向かうのは花の国。森の国の精霊に別れを告げる際、精霊は「森の国から花の国までは入り江を越えるのが近道だよ」と、木製の小さな舟を用意してくれた。

「でも私、舟なんかこいだことないし、どう進んでいいかわからない」
イロは戸惑ったが、「大丈夫。全部この舟がやってくれる。キミは安心してゆっくり休むといいよ。あまり飛ばさないよう舟には言い聞かせておくから。朝には花の国に着くはずだよ。」と、柔らかな毛布も一枚渡してくれた。

「わかった。ありがとう精霊さん。インキも大事にするね。」
精霊は優しくほほ笑み、ふわりと手を振り姿を消した。

海を眺めるイロのイラスト

舟はイロが乗り込むと風もないのにゆるゆると動き出した。
入り江は大きな波もなく穏やかで、舟は水面を滑るように進んで行った。
日が沈み、あたりは真っ暗になっていた。
明かりのない海の上からは降り注ぐような満天の星が輝いて見え、不思議と不安はなかった。
精霊が見守ってくれているような気がしたからだ。

ゆらゆらと舟にゆられていると、まるでゆりかごの中にでもいるような心地になり、イロは眠りについた。
精霊がくれた毛布は本当に柔らかく、優しくイロを包んでくれた。
こうして一度もオールを漕ぐことなく、花の国についた。
朝日がキラキラと反射する海岸にはゴツゴツした岩場があるくらいで花はまったく見当たらない。
本当にここは花の国なのだろうかという不安を抱えたまま舟を下り、緩やかな丘を上ると、眼下に見渡す限り一面、花畑が広がっていた。
イロの国では別々の季節に咲いていた花が、この国では同時に存在していて、とても不思議な光景だった。

花畑では、たくさんの人が畑の手入れをしたり、花を摘んでいたり、誰もが歌を口ずさみ楽しそうに仕事をしていた。
急いで丘を上り、イロはすれ違ういろいろな人たちに精霊のことを聞いてみたが、精霊の居場所を知っていると言う人は誰もいなかった。

畑道を抜け、イロは街の中心の広場までやってきた。
広場は、あちこちで花が宙を舞い、人々が歌い踊り、大変なにぎわいだ。
何かのお祭りなのかと思ったが、「花の国ではこれが普通なのよ。」と、籠売りのおばさんはイロの手を取り踊り出した。

そこへ音楽隊がやってきて、ラッパやアコーディオン、太鼓を鳴らして、踊れ踊れと盛り上げていく。
踊りの輪に巻き込まれながらも、イロは精霊のことを聞いて回った。

「あの!誰か、この国の精霊さんのことを知っている人はいませんか?誰か!」
音楽にかき消されないよう大きな声で呼びかける。
すると、一人のおばあさんが声をかけてきた。
「ん?あなた、精霊を探しているのかい?」
「私、精霊さんに塗師のインキをもらいたくて、この国にやってきたの。」
おばあさんは何か返事をしてくれたようだったが、音楽と歓声に紛れてどうにも聞き取れない。
おばあさんは無言でイロを手招きし、一緒に来るよう促した。
おばあさんは慣れた様子で人波を縫って歩いていく。
「おばあさん、ちょっと待って!おばあさん!」
田舎街育ちのイロは、こんなにもみくちゃにされたのは初めてで、おばあさんを見失わないようにするのが精いっぱいだった。
いろいろな人にぶつかっては謝るのを繰り返し、どうにかおばあさんの後を追う。
ようやく人通りの少ない裏路地に着いたときにはイロは息が上がってしまっていた。
呼吸を整え、イロはおばあさんにもう一度尋ねた。

「おばあさん、この国の精霊さんのこと、何か知ってるの?」
おばあさんは悲しげに遠くを見つめ、「私はこの国を離れて久しいから、もしかしたら役に立たないかもしれないのだけれど……。街はずれにオレンジ色のポピーの花畑があるはずよ。そこに行ってみるといい。この道をまっすぐ行った、山のふもとよ。辿りつけるかはあなた次第だけど、あなたならきっと会える気がする。花畑と同じ色の目をした精霊に。」
「オレンジ色の目の精霊さんね。」
「ええ、そう。とても美しくて、優しい目のね。」

「おばあさんは精霊さんと親しいの?」
「ずいぶん昔の話だよ。私がまだこの国で暮らしていた頃……。そうだ。お守り代わりに、これをあげる。持っていくといい。」

そう言っておばあさんは、つやつやとしたオカリナをイロにくれた。
おばあさんは、花の国の人だったのだが、今は結婚して海の国で暮らしているそうだ。
孫もできてすっかり年を取ってしまったよと幸せそうに笑っていた。
イロはおばあさんにお礼を言い、言われた通り山のふもとに向かった。

イロにお礼を言うおばあさんのイラスト

街のにぎわいとは打って変わって、山へ向かう道はとても静かで徐々に花畑も減り、しばらくすると辺りは岩ばかりで、人の気配もなくなった。
道すがらにおばあさんにもらったオカリナを吹いてみた。
吹き方がわからないので、ホーホーとしか吹けない。
でたらめに指を動かし、ホーホーと吹き続けていると、「あーもう、なんだい。聞いちゃいられないよまったく。へったくそだね。」
どこからともなく一匹のオオカミがやってきた。イロはびっくりして身構える。

「なんだい?アタシが怖いのかい?大丈夫さ。食ったりはしないよ。安心おし。」
そう言って豪快に笑うオオカミは、真っ白な毛に、宝石のようなオレンジ色の目をしていて、とても優しい顔をしていた。

「オカリナの音が懐かしくてつい出てきちまったよ。アンタはこんなところでいったい何をしてるんだい?」
「私、この国の精霊さんにインキをもらいたくて街で聞いて、精霊さんがいるはずだっていうオレンジ色のポピーの花畑を探しているの。オオカミさん、何か知らない?」
「誰からそんな話を聞いたんだい?」
「このオカリナをくれたおばあさんが教えてくれたの。」
オカリナを見たオオカミは一瞬言葉に詰まった。

「……わかった。案内してやるよ。ついて来な。」

イロは小さくうなずきオオカミについて行く。
岩と岩の隙間に入り、クネクネとした小道を行った先に、花畑はあった。
オオカミが示してくれたのは、確かにポピーの花畑だが、その花弁は真っ白だった。

「オオカミさん、ここは?」
「ここはもともとオレンジ色の花畑だったんだ。だが、ある日を境に、ここの花は真っ白に変わってしまったんだ。あの日のあの子のドレスの色みたいにね。」
「あの子?」
「いや、なんでもない。オレンジ色じゃなくて申し訳ないが、これで満足かい?」
「オレンジ色の花畑も見たかったけど、でも真っ白もとてもきれい。オオカミさんの毛並とそっくり。すてき。」
「アタシと同じ色だって?面白いことを言うね。あの子も似たようなことを言ってたよ。まだここがオレンジ色だった頃、それがアタシの目の色と一緒だって。」

イロはオカリナをくれたおばあさんを思い出した。
「目の色と一緒……もしかしてあなた……。」
「あぁそうさ。この国の精霊はアタシだよ。」

オオカミはそう言うと、背の高い、美しい女性の姿になった。
腰まであるふわふわとした真っ白い髪に、きれいなオレンジ色の目。
薄緑のゆったりとした服が、はたはたと風に揺れていた。

「アンタ、あの子に会ったんだね?オカリナの子だよ。あ、いや、もう『子』って年じゃないのか。ずいぶん長いこと時間がたってしまったからね。」
「うん。今はお孫さんもいてね。幸せだって言ってた。」
「そうかい。ならよかった。あの子、小さい頃は友達がいなくてね。いつもアタシが遊んでやってたんだ。オカリナが上手でね。よく吹いて聴かせてくれたよ。」
「このオカリナね。そんな大事なもの、私がもらってよかったのかな?」
「あの子が決めたんだ。いいに決まってる。」
「そうだ。おばあさんがね。精霊さんに伝えてほしいって。『この国を出る日、会いに来られなくってごめんなさい。会ってしまったら、お別れがつらくなってしまう気がしてどうしても勇気が出なかった。きっと怒っているよね。どうか許してほしい。』って。」
「あの子ったら、まったく。怒ってなんかいるわけないさ。アタシもね、こっそり街まで行ってあの子の旅立つ姿を見たんだ。あの日のあの子は、泣き虫だった頃とは違って、とてもきれいだった。幸せになってほしいと心から願ったよ。そうだ。よかったらもう一度オカリナを吹いてくれないかい?」
イロは緊張しながらホーホーとオカリナを吹いてみせる。

「ははははっ、やっぱりアンタはへたくそだな。でも、ありがとう。アンタはインキが欲しくてここに来たんだったな。瓶は持っているかい?」

イロはカバンからインキ瓶を取り出し精霊に差し出す。
イロの両手に収まったそれに精霊が手をかざすと光が集まり、空だった瓶はインキで満たされた。

「代わりと言ってはなんだが、一つ頼みを聞いてくれないか?この花畑に色を塗ってほしい。オレンジ色に戻してほしいんだ。あの子が気に入ってくれていた、アタシの目と同じ色に。」
喜んで引き受けたイロは精霊の目をじっと見つめ、その色が広がっていくのを想像する。
温かくて、包み込むような強さのある色。
春風のように軽やかに筆を弾ませ、踊るように色を塗っていく。

そんな姿を精霊は幸せそうな顔で見守っていた。

海の国

花の国の精霊が、「あの子にお礼を言いに行くついでに乗せて行ってやるよ。」と言ってくれたので、オオカミの姿に戻った精霊の背中に乗り、海の国を目指した。
木々や岩の隙間を縫うようにしてものすごい速さでびゅんびゅん進んで行ったが、ふかふかの背中はほんわかと温かくて不思議と恐怖は感じなかった。
人の足では丸一日以上かかる道のりもあっという間に駆け抜けて、太陽が真上に昇る頃には海の国にたどり着いた。

「イロ、アタシはここまでだ。さすがに街の真ん中にオオカミが現れるわけにはいかないだろう。」
「わかった。精霊さん、ありがとう。おばあさんにもよろしくね。」
「あぁ。イロも気を付けて行っておいで。」

人気のない海岸沿いで花の国の精霊と別れ、イロは一人、街の方へと向かった。
まぶしい太陽、少しペタペタとする海風、広く高い空、空を舞う大きいカモメの声。
周囲を山に囲まれた静かな田舎町で育ったイロにはどれも新鮮だった。

「夜だとよくわからなかったけど、海ってこんなに大きいのね!」
明るく開放的な景色に、心は弾み足取りも軽い。

海の国はとても活気に満ちた国で、港には市場が立ち並び、競りが行われていたり、人々がたくさん行き交っていた。

「お嬢ちゃん、お使いかい?今日はいい貝が入ってるよ!」
キョロキョロしながら歩いていたイロに露店の店主が声をかけてきた。
「ごめんなさい。お買い物じゃないの。この国の精霊さんを探していて。」
「さてはお嬢ちゃん、この辺の子じゃないね?ははは。精霊様に会いたいなら浜のほうに行ってみるといいよ。今ごろならレースの真っ最中さね。」

言われた通りに浜に向かってみると、波打ち際には人だかりができていて、大きな歓声が上がっていた。
近寄ってみると、海の向こうから何かがものすごいスピードで近寄ってくるのが見えた。
ザバァ!ザザン!砂と水しぶきを舞い上がらせながら浜に着地したそれは、イロより少しだけ年上の男の子と女の子の姿をしていた。
二人は兄妹のようで、顔を合わせるやいなや、盛大な口げんかを始める。

「アタシの勝ちよ!お兄ちゃんがなんて言おうとぜったいぜったい今回はアタシの勝ち!」
「いいや、オレだね!だいたいオマエがオレに勝とうなんて100年早いんだよ。」

「100年後なんて明後日みたいなものだもの。今勝ったっておかしくないじゃない。」
「ああ言えばこう言う。オマエはホントにめんどくせぇな。ちっともかわいくない。」
二人のけんかはまるで収まる気配はなく、観客たちは誰も仲裁に入ろうとせずただニコニコと二人のやりとりを眺めているだけだった。
「どうして誰も二人のけんかを止めないの?」
イロは近くにいた大人に小さな声で尋ねた。
「あの兄妹の精霊様たちは、毎日ああやって競争しちゃあけんかして、いつの間にかまた仲直りして一緒に遊んでるのさ。日課みたいなもんだから、ほっとけばじきに収まるよ。」

喧嘩する二人のイラスト

イロは、二人に近づいて声をかけた。
「精霊さん、すみません。ねぇ、聞いて!精霊さん!!」
「あぁ?オマエ誰だ?」
「私は、イロといいます。インキをもらうために旅をしていて…」
「へぇ!あなたがイロちゃん。」
「え?私のこと知ってるの?」
「うーん、知ってるっちゃー知ってるけど……まぁ細かいことはいいじゃねぇか。」
「ねぇ、お兄ちゃん。いいこと考えた。イロちゃんに私たちのどっちが速いか決めてもらったらどうかな?イロちゃん、どう?決めてくれたらお礼にインキあげる。」

「ほんとに?でも、私どうしたら。」
「オレとコイツ交代でオマエを背中に乗せるから、どっちが速いと思ったか教えてくれ。」
「決まりね!じゃあまずアタシの番!イロちゃん、背中に乗って。行くよ!」

精霊たちはカモメの姿に変身した。
妹は返事を待たず半ば無理やりイロを背負うと、びゅーんと上空へ一直線に舞い上がった。
街が見渡せるくらいに上昇すると一気に海面ギリギリまで急降下し浜の端から端までを猛スピードで二周すると浜に降り立った。
ただ背中にしがみついていただけのイロだが、息が切れて少しくらくらした。
まだ少しぼーっとしているイロに、今度は兄が「よし今度はオレな。そうだ。海の中でも大丈夫なように、これを被せてっと。」
兄が口からふぅっと息を吐くとあぶく玉のようなものが現れクルクル回転し、大きく膨らんでイロの頭をすっぽり覆った。
「よし。これでオッケー。しっかりつかまってろよ。」

海鳥とイロのイラスト

兄はイロを背負い、波打ち際から助走をつけて飛び上がり、ドボンと海の中に潜った。
どんどん深くまで潜り、肌に触れるのが温かい水から冷たい水に変わる。

被せてくれたあぶく玉のおかげで息もちゃんとできて、海の中がはっきり見える。
たくさんの魚たちとすれ違ったが、あまりの速さにじっくり眺める余裕はなかった。
海底に着くと渦のようにぐるぐる回って上昇し、ざばっと海から飛び出した。
砂浜に着地すると同時にイロの頭を覆っていたあぶく玉が割れ、イロの服もすっかり乾いて元通りになった。

「で?で?どっちが速かった?アタシでしょ?ね?絶対そうよね。」
「なに言ってんだ。ぜってーオレだろ?」
イロはあまりの目まぐるしい景色に、呆然としていたが、二人に詰め寄られてペタンと尻もちをつくと声をあげて笑い始めた。

「ごめんなさい。とっても怖くて、どっちも面白かった!私には一番は決められないよ。」
「それじゃ解決にならないし、約束のインキもあげられないじゃない。」
「そうだよ。今日こそはコイツと決着をつけたいんだ。」
精霊たちは真剣なまなざしでイロを見つめた。
「ねぇ、どうしてそんなに勝ち負けにこだわるの?たった二人なのに。」

「二人いれば、順番が生まれる。どっちかが一番でどっちかがビリだ。イロだってビリって言われるのは嫌だろう?」
「うーん……ビリって言われるとなんか嫌な気はするけど。」
「そうよ。ただでさえアタシは妹だからそれだけで『お兄ちゃんの次』扱い。なんか悔しいじゃない。」
「私一人っ子だからお兄ちゃんとか妹とかあこがれるけどな。そりゃほんとにいたらけんかだって競争だってするかもしれないけど、楽しいことも半分こ。悲しいことも半分こ。分け合って、協力し合ったら楽しいだろうなって思う。」

「そんないいもんでもないぜ。」
そうは言ったものの、その口調からはまんざらでもない様子がうかがえた。
「でもさ、今さら競争やめたら何していいかわからないわ。」
「二人で一つのことをするのはどう?何かを一緒につくるとか。」
「二人で……ってのは思いつかないけど、イロ、オマエも手伝ってくれるなら一つ、やりたいことがある。この国のみんなも喜んでくれることが。」
「お兄ちゃん、それってもしかして……そうだね!イロちゃん、さっそく行こう。背中に乗って。今度はそんなに飛ばさないから大丈夫よ。」

二人に案内されたのは港の端っこの広場で、そこには大きな古びた船があった。
海の国が発展するきっかけをつくった船で、今は使われてはいないが、この国の象徴として大事にされてきたものだそうだ。
「イロ、オマエにこの船を塗ってほしい。」
「こんな大事なもの、私が塗っていいの?」
「イロちゃんにだから、任せられる。アタシもお兄ちゃんも手伝うから、ね、お願い。」

イロは兄妹と力を合わせて、大きな船に色を塗っていく。
イロが塗ったのは抜けるような青空と、深い海との青のグラデーション。
最後に三人で船尾に手形を押した。
仲良く三つ並んだそれは、まるで船を優しく後押ししているようだった。
あっという間に時間も経ち、気がつくと、日が沈みかけていた。

「ありがとう、イロちゃん。手伝えて楽しかった。」
「船は完成しちまったから、次どうするかわかんねぇけど。」
「お兄ちゃんと二人でやれること、何か探してみるわ。街の人にも協力してもらって。」
「よかった。あ、でもときどきレースはしてあげて。街の人たち楽しみにしてるみたい。」
「あたりまえだ!本気で体動かさなきゃ、なまっちまう。」
そう言って兄は腕をぶんぶん回してみせた。

インキも受け取り、兄妹に別れを告げる。
大カモメに乗って飛び立つイロを二人は見送ってくれた。
イロはそんな二人の姿を見て、自分にも兄弟姉妹がいたらどんなだったかなと想像した。
競争したかな?けんかもしたかな?もしかしたら一緒に旅してたかもな。
そんなことを思いながら、高く高く空へ昇っていく。
空から見る海は二人がくれたインキのように、優しい青色をしていた。

水の国

つかの間の兄妹気分が楽しかったイロは海の国を離れるのは寂しく感じてしまったが、二人が「ぜったいまた遊びに来いよ。いつでも歓迎するぜ。」
「そうよ。待ってるからね。イロちゃんはアタシたちの兄妹みたいなもんだから。」と言って送り出してくれた。
イロは、大カモメの背中に乗って、次の国を目指す。
大カモメはふわりと上昇し、ゆっくりと飛んでいく。

「あの国の精霊は気難しいから、少し大変かもしれないが……。」
「イロちゃんならきっと大丈夫。心配ないよ。」
二人は、イロの姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けていた。

次にやって来たのは水の国。
にぎやかな海の国に比べて街全体に、どこか厳かな空気が漂っていた。
水の国の特徴といえば、交通網として水路が発達しており、街中のあらゆる場所に小舟で移動できるようになっている。
船着き場で街の地図を見ながらどこに向かうか迷っていると、白いタキシード姿の男性とドレス姿の女性が別々の舟に乗り込み、それぞれ逆方向の水路に行くのが見えた。
「お嬢ちゃん、あれは結婚式だよ。よかったら見物するかい?」
船頭が、お祝いは一人でも多いほうがいいからと、特別に花嫁の少し後ろをついていってくれることになった。

水の国の結婚式はこうやって花嫁と花婿がそれぞれ別の舟に乗り、違うルートをたどって街を巡り、街の真ん中にある教会に二人が揃ったところで、誓いの儀式をするそうだ。
水路沿いの建物からは次々と花が投げられ、街全体がお祝いムードに包まれていった。
しばらく行くと、教会の前には花婿が先に着いていて花嫁を待っていた。
それぞれの舟から降りた二人は手を取り合って教会の中に入っていく。

水の国の結婚式のイラスト

教会の中では、司祭の前で指輪と一緒に二枚貝の上下をそれぞれ分け合って夫婦の宣言をするそうだ。
そして教会を出て、今度は二人一つの小舟に乗り、また街を巡っていく。
割れんばかりの拍手の中、二人はとても幸せそうだった。
二人の姿が見えなくなったところでイロは船頭に尋ねる。
「どうして、指輪だけでなく貝殻を交換するの?」
「あぁ、あれは、一対の貝殻の上下で、貝の口が閉じるように、二人の人生が幕を閉じる日まで添い遂げようっていう約束の証しなのさ。」
「すてきね」
「この国の古い言い伝えでね、昔々、人間の娘と恋に落ちた精霊がいて、その娘に想いを伝えるときに自分が生まれた貝殻を半分渡したってのが始まりらしい。
二人はめでたく夫婦となったんだが、人間と精霊とじゃそもそも生きてる時間が違う。
しかもその娘は精霊と結婚の誓いをしてすぐに病気で亡くなってしまったんだと。」
「そんな…。」
「それから精霊様は人前に出てこなくなってしまったらしいが、時たま街を守るために地上に出てきているらしい。」
「街を守るってどういうこと?」
「そもそもこの国は、海を埋め立ててつくられているから、いつ沈んでもおかしくねぇんだ。それを精霊様が守ってくれてるんだよ。」
「その精霊さんにはどうやったら会えるの?」
「それは難しいんじゃねぇかな…。もしかしたら、教会の司祭様だったら何か知ってるかもしれねぇな。」
「わかった。私、司祭様に会いに行ってみる。ありがとう!」
イロは舟を降り、教会の中に入っていった。

貝殻のイラスト

重々しい教会の扉を開けると、中には誰もおらず、しんと静まり返っていた。
コツン、コツンとイロの靴音だけが教会の中に響き渡る。
教会の天井全体には、船頭に聞いたこの国の成り立ちが描かれていた。
街に少しずつ建物が建っていく様子、大きな船から荷が降ろされて小舟に積み込まれる様子……その中に、ひときわ神々しく描かれている一人の男性の姿があった。
その男性は優しい藍色のローブをまとって、みんなを包み込むように大きく手を広げていた。
そこから視線を下ろすと、ちょうど、絵の男性と向かい合うように一体の像が建っていた。大理石でできたそれはベールを被った女性の像で、手を合わせ、絵の男性を見上げていた。窓から差し込む光が一筋、女性の像の頬を照らしていて、まるで涙が流れているように見えた。

しばらく像と天井の絵を眺めていると、靴音を鳴らしながら誰かがイロのほうにやってきた。
「おやおや。お嬢さん、見かけない顔だね。」
この教会の司祭だった。
「はじめまして。私はイロといいます。
精霊さんから塗師のインキをもらうために中央の国からやってきました。」
イロは司祭に今までの旅の経緯を話した。
「おお。それはまた遠くから旅をしてきたんだね。」
「はい。それで、この国の精霊さんにもインキをもらいたくて。どうやったら会えますか?」
「この教会の地下深くに水の聖堂と呼ばれる場所があって、そこに彼は暮らしているんだけれど、会うのは少し難しいかもしれないね……。彼は、毎月新月の晩に陸に上がり、この国のみんなが安全に暮らしていけるよう祈りをささげる儀式を行ってくれているんだが、彼の結婚相手……あぁ、その石像の女性だよ。彼女が亡くなってからは、まったく姿を見せなくなってしまったんだよ。代々、この教会の司祭がその儀式に立ち会うきまりだったんだが、私も実は姿を見たことがなくてね。この国に平和は続いているし、儀式は続けてくれているようなんだけどね。」
「水の聖堂に行くことはできますか?」
「誰でも入れるわけではないんだが、塗師のインキということなら、それは一大事だ。入り口までは案内してあげられるから、夜になったら連れていってあげよう。なにせ彼は昼間には絶対に人と会おうとしないからね。」
何年も教会を守っている司祭ですら精霊に会ったことがないということに不安を感じたが、ここで諦めるわけにもいかず、司祭の言う通り、夜を待つことにした。
「ところでイロさん、今日の宿は決まっているのかな?よければここに泊まっていくといい。来客用の部屋があるから、そこをお使いなさい。温かいスープとパンも用意しよう。今日は新月。運がよければ、彼に会えるかもしれないからね。」
「ありがとうございます司祭様。夜になるまで時間もあるし、お礼をさせてほしいのですが、何かお手伝いできることはありませんか?」
「いやいや、ありがとう。今日は気にせずゆっくりしていきなさい。」
「えっと…じゃあ、この女性の石像を磨いてもいいですか?」
イロは、精霊の花嫁だという女性の像に近づき指さした。
「それはかまわないけれど、どうしてこの石像を?」

「なんだか、とっても悲しそうに見えて。」
「ありがとう。きみが手入れをしてくれたら、きっと彼女も喜ぶよ。」
イロは司祭に布巾とバケツを借り、丁寧に石像を磨き上げた。
石像がきれいになる頃には日は落ち、涙のような光の筋は消えていたが、念入りに優しく頬を拭った。少しだけ、その表情が柔らかくなった気がした。
食事の後、個室をあてがわれたイロはベッドに腰を下ろすと、そのまま吸い込まれるように眠ってしまった。
波にたゆたうような眠りの中で夢をみた。
花びらが降り注ぎ、たくさんの人々が幸せそうに笑い合う結婚式の夢だった。
花婿の顔はよく見えなかったが花嫁はイロが手入れした像の女性に似ていた。
ほほ笑み合い指輪と貝殻を交換する二人。幸せの涙が花嫁の頬を伝い、床に落ちる。
すると、あたりは急に真っ暗になり、イロの周りには誰もいなくなった。
「助けて……。」
か細い声が聞こえて振り返ると花嫁がそこに立っていた。
「助けて。お願い。あの人を…。」
「あの人って?」

「あの人はずっとひとりぼっち。あの人が悲しいと私も悲しい。イロ、どうかあの人を助けてあげて…。」

涙を流す女性のイラスト

「イロさん。イロさん。」
ドアをノックする音でイロは目覚めた。
ぼうっとしながら起き上がると、そこはベッドの上で、眠ってしまっていたのだと気づく。
「イロさん、起きてるかい?水の聖堂のあるところに案内するよ。」
「あ、はい!今行きます。」
イロはあわててインキ瓶の入ったカバンをつかむと部屋を飛び出した。

司祭と、教会の奥の地下へ続く階段をランタンの明かりを頼りに下りていく。
階段を下りきるとそこは地下水路になっていた。
「この水路の下が水の聖堂になっていて、私が連れていけるのはここまでなんだ。彼が君を聖堂に入れてもいいと思ったら、道が開けて中に入ることができる。私は上に戻っているからね。」
一人になったイロはあたりを見回してみる。ランタンの明かりに照らされた水路は暗く、水中の様子をうかがい知ることはできなかった。
「精霊さん、聞こえますか?私はイロといいます。精霊さんにお願いがあって来ました。」
届くかはわからないが水底に向かって声をかけてみる。
少しすると、ゆっくりと音もなく水面が二つに割れ、下に続く水の階段が現れた。
階段はイロ一人がやっと通れる程度で、おそるおそる足を踏み入れると、浅い水たまりを歩くような感触だった。
「精霊さん、おじゃまします。」
先の見えない長い階段を下りていく。永遠にも一瞬にも思えるような時間が過ぎる。
下に着くと扉が閉じ、階段は消えてしまった。
目の前には地下とは思えないくらいの広い空間が広がっていて、明かりなど何もないのに昼のように明るく、少しひんやりとしていた。
色とりどりの水草がゆらゆら揺れて、手を振っているようだった。
「精霊さん、どこにいますか?」
声をかけてみるがやはり返事はない。
そのまままっすぐ進んでいくと、ようやく突き当たりが見えた。
奥に人影が見える。
近づいていくと教会の天井画と同じ、藍色のローブをまとった精霊だった。

『イロ、助けて。あの人を。』
夢の中で聞いた声がよみがえる。

「早くインキ瓶を出せ。」
イロが声をかける前に精霊は振り返った。
「あ、えっと……あの……これ。」
イロがインキ瓶を差し出すと精霊は黙って瓶に手をかざした。
チリンと音がして精霊のカケラが瓶の中に落ちる。
コポコポと湧き出したのは水の底のような深い藍色のインキだった。
「これでもう用は済んだだろう。早く地上に帰れ。」
精霊が手を振ると、水の壁が開けて階段が現れる。
「……。」
イロは動かない。
「どうした。まだ何か欲しいものがあるのか?」
「あのね、夢を見たの。結婚式の夢。それで、花嫁のお姉さんに頼まれたの。『あの人を助けて』って。」
「ただの夢だ。」
「精霊さん、これからも、ずっと一人でいるの?」
「人間の命はあまりに短くてもろい。だったら最初から一人でいるほうがいい。」
イロはしばらくうつむいていたが、顔を上げて精霊の目をまっすぐ見た。
「結婚式でね、貝殻を交換するの。最初に精霊さんがやったみたいに。二人のようにずっと想い合っていられるようにって。たしかに人の命は短いかもしれないけど、そうやって想いをつないでいくことはできる。塗師もそうだもの。」
精霊は頑なな態度を崩さない。イロはさっきもらったインキを見つめた。
深い深い水の底の色。悲しみの色。でもきっとそれは深い想いの色。
「そうだ。来て!」
イロは精霊の手を取り、階段を駆け上がる。
「何を……。」
「いいから、一緒に来て!」
水の聖堂を出て、さらに教会の地下の階段を一気に駆け上がった。
真夜中の街はすべてが眠りについていて、しんと静まり返っている。
誰もいない教会の中、花嫁の像の前で立ち止まる。
息は切れているが不思議とつらくはない。
「何をする気だ?私は帰る!」
「待って。そこで見てて。」
そういうとイロは精霊からもらったインキを使って花嫁の像のドレスに色を塗り始めた。
丁寧に、優しく、一筆一筆に想いを込めて。そんなイロの姿を精霊はじっと見つめていた。

花嫁の像のドレスに色を塗るイロのイラスト

インキは、瓶に入っていたときはとても悲しい色に見えたが、こうして塗ってみると、それはとても優しく包んでくれるような色だった。

精霊は像に近づくとそっとその頬に触れた。

どのくらいそうしていただろうか。
ゆっくりと夜が明け、少しずつ街が動き出した。
彼女の頬にさしていた光の涙は、今は優しく二人を包みこんでいる。

宝石の国

朝になって司祭が教会にやってきた。司祭は驚いた顔をしたが、きれいに塗られた銅像のドレスを見てほほ笑むと、袖のかくしから貝殻を出し、それを精霊に渡した。
「前の司祭から預かっていたものです。」
司祭はそう言うと精霊に一礼をして、教会の準備があるからと別部屋に入っていった。
「きれいな貝殻ね」
「おまえのおかげだ、イロ。さっきは無礼な態度をとって悪かった。礼を言う。」
精霊はその貝殻を大事そうに懐にしまう。
「また街に顔を出そう、沈むかもしれないそのときまで、あの司祭とともに街を守ると約束しよう。」
イロは精霊の穏やかな横顔を見つめた。夢の中の花嫁も笑っている気がした。

次に向かうのは宝石の国。今まで旅をしてきた国々がある大陸から少し離れた島国だ。
島のほとんどが宝石の採掘場になっていて、高価な宝石が勝手に国外に持ち出されないよう警備がとても厳重で、入国のためには厳しい審査があるそうだ。
「これがあれば問題なく国に入れるはずだ。持って行きなさい。」
そう言って精霊が宝石の国への入国の推薦状をくれた。
宝石の国へは、大きな船に乗って二日かかるらしい。
最初のうちは船の中を見て歩いたり、船員と少し会話をしたりしていたが、すぐにそれも飽き、残りの時間は与えられた船室でのんびりと過ごした。

騒がしい声で目を覚ます。どうやら宝石の国に着いたようだ。
窓の外を見ると、たくさんの船が停泊していて、イロの乗った船のように、よその国から到着した船、逆に、これから出港する船などさまざまだった。
ある一つの船に荷物が運び込まれるのが見えたが、荷を運んでいる人たちの顔つきは暗く、みんなうつむいて歩いており、それらの人々を監視する役人は常に怒鳴り声をあげて、早くと急き立てていた。
イロが荷物の列の後ろを歩き、最後に船から降りると、「キミ、ちょっと!乗員名簿に名前がなさそうなんだが、密入国じゃあるまいな?」と役人に呼び止められた。
「あ、あの、これを見せればいいって言われて。」
イロはおそるおそる精霊から渡された書状を見せた。

「ん?なになに?『この者は塗師のインキを求めて旅をする者。入国を許可されたし。』……これは、水の国の精霊様からの書状!お嬢ちゃんいったい何者だい?」
「あの、えっと私は……そこに書いてある通り、塗師の……。」
イロが最後まで答える前に役人は「塗師!なんと!こんな小さいのにキミ塗師様なのかい!」
「塗師様って……。」
「いやいやいやいやいや、塗師様。そんなことおっしゃらず。インキを求めてこの国にいらしたということは、あの山の上に向かわれるのですか?」
「この国の精霊さんは山の上にいるの?」
「私は会ったことはありませんが、そう言われてますね。しかし塗師様、見たところ、そんな装備では山には耐えられませんよ。どうです?私の知っている店で登山の道具を揃えられては。案内いたしますよ。塗師様ということであればきっとすてきなサービスが受けられるはずです。」
役人はイロの腕をつかみ、ぐいぐいと自分の思う所へつれて行こうとする。
強引な態度と、やたら調子のいい口調にイロは不信感を抱いたが、勢いに圧倒されどう断ればいいのか戸惑っていると、女の子が止めに入ってくれた。
「おじさん、その子嫌がってるじゃない。手、離しなよ。」
見ると、イロと同い年くらいの女の子が立っていた。
おさげに結った赤毛の髪、どことなく埃っぽいワンピース、使い込まれた革製の短いブーツ。キリリとした目元に意志の強さが感じられる。
「なんだ?あぁ、採掘屋んとこの娘か。キミに用はない。塗師様、ささ。」
懲りずにイロをつれて行こうとする役人。
女の子は、つかつかと役人に歩み寄ってきたかと思うと力いっぱいそのすねを蹴飛ばし、痛がる役人の手からからイロを引きはがし一緒に走り出した。
しばらく走ったところで女の子はぴたりと立ち止まった。
「あなた、大丈夫?小さい子が一人であんなところウロウロしてちゃだめよ。」
「小さい子って……。私とそんなに変わらないように見えるけど…。」
「あはは、そうかもね。あ、私はべリル。宝石採掘の現場でお父さんの手伝いをしてるわ。」
「えっと、私は中央の国のイロ。塗師……の見習いで、精霊さんにインキをもらいに一人でこの国に来たの。」

イロに自己紹介をするベリルのイラスト

「なんだ、まだ見習いか。」
「なんだってなによ。」

あの役人のように「塗師様」などと言われるのも落ち着かないが、そんな言い方はないだろう。
「ごめん、ごめん。私も見習いだから、同じだなって思ったの。気を悪くしたのなら謝る。でもあなた、中央の国から一人で旅してくるってすごいじゃない。」
「あ、うん。ありがとう。そう、なのかな。」
「そうだよ。すごいよ!あ、そうだ。お詫び、っていうか、あの役人まだその辺ウロウロしているかもしれないし、とりあえずウチに来ない?山に行くんだったら準備も必要だし。私手伝ってあげるよ。」
「えっと……それって……。」
「あー、違う、違う。あいつと一緒にしないで。私の道具とか、服を貸してあげるだけ。心配しないで!ね、行こ!」
にっこりと笑う彼女の笑顔に促されてイロは素直について行くことにした。

街はずれにべリルの家はあった。大きくはないが、外壁は丸太を組み合わせてつくられていて、手入れの行き届いた温かみのある家だった。
「お父さんもお母さんも仕事に行ってて誰もいないけど、どうぞ。お茶でも入れるわ。」
イロは促されるままにテーブルにつき、パタパタとお茶の用意をするべリルの姿を見守った。
とても手慣れた様子で湯をわかし、踏み台を使ってカップや茶葉を棚から出したりと、普段から家事をやっているのがよくわかる。
「私、こんなふうにできないな……。」
イロはぽつりとつぶやいた。
「ん?なんか言った?」
「ううん。なんでもない。」
「そう?はい。お待たせ。どうぞ召し上がれ。」
差し出されたカップからは優しい湯気が立ち上り、何種類かのハーブのいい香りがした。
ゆっくりすすると体の内側からぽかぽかしてくるようだった。
「ところで、あなた……ええと、イロ。すごいわね。一人で旅してきたんでしょ?しかもよくこの国に入れたわね。この国、入国がとても厳しいってお父さんが言ってたわ。」
「ここに来る前に行った水の国で、精霊さんからお手紙をもらって。それを見せれば大丈夫だからって。」
「へぇ!すごい!だからアイツあんなにイロに取り入ろうとしたのね。ついて行かなくて正解よ。あなたから道具代や案内料をふんだくろうとしてたのよ、きっと。」
「私みたいな子ども、そんな大金持ってるはずないじゃない。」
「あなた本当に何も知らないのね。」
べリルのずけずけとした物言いがイロの心をざわざわさせる。
「まず、塗師ってだけでもこの国ではとっても重宝されているの。お金持ちの中には大金を払って専属の塗師を雇っている人だっているわ。おまけに精霊の推薦状付きでほかの国から旅してくるなんてめったにないことよ。だからあなたからお金を搾り取れると思ったのね。たとえあなたが持っていなかったとしても、後からあなたの家族や、推薦状をくれた精霊に言って、大金を払わせるつもりだったのよ。」
今まで旅してきた国の人たちや自分の育ってきたところには、そんな人はいなかったのでイロは驚いた。
自分は本当に何も知らないのだなと実感させられた。
「でもね、この国も怖いことばかりじゃないのよ。私のお父さんは宝石の採掘場で働いていて、お母さんはその採れた宝石を加工する仕事をしているんだ。お父さんはね、やみくもに掘らなくてもどこに宝石が眠っているのかわかるの。すごいでしょ。そしてね、掘り出したばかりの原石は曇ってかすかに色がわかる程度なんだけど、お母さんが磨いていくとね、その手の中でキラキラと輝きだすの。魔法みたいに!」
「お父さんとお母さんのことが大好きなのね。」
「そう。お父さんもお母さんも大好き。二人の仕事もとっても大好き。宝石をいっぱい身に着けた大金持ちじゃなくて、そんな宝石をこの世界に送り出せる二人のほうがずっとすてきだと思う。」
熱く両親のことを話すべリルの瞳は宝石のようにキラキラと輝いてまぶしかった。
同じだ。父親にあこがれて、父と同じ仕事をしたいと思っている自分と同じだ。
いや、自分はべリルのようにできているだろうか。
家のこともこんなにテキパキとはこなせない。
これまで旅をしてきて、いくつか塗りを任されてはきたが、自分には足りないものばかりだったように思えてきた。
「そうだ。精霊様に会いに行かないとなんだよね。準備して出かけよう。待ってて。服と靴貸してあげる。あと杖とロープと……。」
そんなイロの複雑な心中をよそに、ベリルは手際よく準備を進めていく。
べリルが用意してくれた服と靴は使い込まれたものだったが、よく手入れがされていて着心地がよかった。
用意してくれた荷物で大きなリュックがパンパンになった。
「え、こんなに持って行かないとダメ?」
「あなたね、山をなめちゃいけないわよ。これでも減らしたの。ま、素人のあなたにはつらいかもしれないから、私が少し持ってあげてもいいわよ。」
そう言われると負けていられない気持ちになる。
「大丈夫。自分の分は自分で持つ。」
イロがそう答えるとべリルはニヤリとし、黙って先に外へ出た。

べリルが、父親の仕事仲間に相乗りをさせてもらえるように頼んでくれたので、馬車に乗って向かった。
採掘屋の男たちはとても気さくで、それぞれの奥さんたちが持たせてくれた弁当を少しずつイロたちに分けてくれたり、歌を歌ったりしたので退屈することがなかった。

山の途中で馬車を降り、歩いて山を登り始めた。
最初こそは余裕だと思ったが、あっという間に息が切れて荷物がさっきより重く感じられた。
そんなイロをよそにべリルは軽快に歩みを進めている。
負けたくない一心で、黙って後ろをついて行く。しばらく行くと洞窟が見えた。
入り口でべリルがランタンに火をつけて、その明かりを頼りに奥へ奥へ進んで行く。
入り口が見えなくなるまで進み、分かれ道に差しかかったところでベリルが止まった。
「このへんでちょっと休憩にしましょ。今スープを作ってあげる。」
べリルはカバンから小さな鍋や具材を取り出し、手慣れた様子で調理を始めた。
「べリルは本当にすごいね。私、ご飯とか作れない。お母さんに甘えっぱなしだ。」
「別にすごくないよ。私は好きでやってるだけだし。イロはもっとすごいよ。ここに来る前に一人でいくつもの国を回ってきたんでしょ?私この国から出たことないもの。」
「すごくなんかないよ。みんなに助けてもらってなんとかなってる。べリルにも。助けてくれてありがとう。」
「そんなにはっきり言われると照れるな。……うん、よし。スープできたよ!カバンに器が入ってるから出して。あとパン。」
言われた通りにカバンを探ると、木製の器とスプーン、布にくるまれたパンが出てきた。
スープをよそってもらって、一口すする。
こんな短時間で調理したとは思えないくらい深い味わいのスープだった。
「おいしい!」
思わず笑みがこぼれる。
「そうでしょ?家で食べるお母さんの味を、どこでも食べられるように考えて作ったの。」
べリルは誇らしげに言う。

食事をするイロとベリルのイラスト

「これ、にんじん?お野菜がいろいろ入ってる。」
「野菜はね、薄く切って乾燥させておくの。そうすると軽くて持ち運びしやすいし長持ちするからこういうときにぴったりなの。」
「べリルはよく外でご飯食べるの?」
「お父さんたちのお弁当用に考えたのが最初だけど、実は私、こっそりよくここに来てて。今みたいにご飯食べたり、お茶を飲んだりして過ごすの。暗いけど、なんか落ち着くでしょ?」
「怖くないの?」
「今いるこの場所までなら大丈夫。あとね、秘密があって、このランタンに……。」
べリルはカバンから小瓶を取り出しランタンに中身をざらざらと流し込んだ。
「なぁに?それ。」
「これはね、お母さんの工房からもらってきた宝石を加工するときに出るカケラを集めたもの。これをランタンに入れると、中で光が強くなるだけじゃなくて……見てて。」

カケラを流し込んだランタンを岩肌にかざすと、照らされたところが共鳴するようにいろいろな色に輝きだした。
「不思議でしょ?光ってるのは、岩の中に眠っている宝石たちなの。」
「わぁ!とってもキレイ!」
ランタンをかざしたところだけがキラキラ光る。
今まで見たことのない光景に、イロの心は躍った。
「私がたまたまランタンで遊んでて発見したんだ。最初は『いたずらするな!』って怒られたんだけど、今はお父さんたちもこの方法で採掘してる。」
「すごいね。大発見だね!」
「本当にたまたまだから自慢できないけど、お父さんの役に立てているのはうれしいかな。」
「べリルはかっこいいな。ちゃんとお仕事の役に立ってて。」
「何言ってるの、イロだって……って私たち、会ってからずっと同じこと言ってない?」
「確かに。ずっと、『すごいね!』『そっちもすごいよ!』って褒め合ってる。」
「変なの。」
「変だね。」
二人は内緒話をするように顔を寄せ合ってクスクスと笑った。

「イロがずっとここにいてくれたらいいのにな。それで、たまに二人でここでお弁当を食べたりするの。」
「楽しそう。私とべリルの秘密基地だね。」
「二人でならもっと進んでみても大丈夫かな……。前に一度、一人で調子に乗ってもう少し奥に入ってみたことがあるんだけど、分かれ道を適当に選んで進んだら、来た道がわからなくなってしまったの。今思えばちゃんと目印を残して進んでおけばよかったなって。」
「えぇ!どうやって戻れたの?」
「精霊様が助けてくれたの。自分ではどうしようもなくなって立ちすくんでいたら、目の前に現れて、気づいたら私、洞窟の入り口のとこに立ってた。」
「精霊さんってどんな人なの?」
「この国の精霊様は、人の姿をしてなくて……うーん、なんていうのかな、おっきなトカゲみたいな。でもとっても優しい目をしてた。おっきな口で、ぶおーって息を吐くの」
べリルは大げさな身振り手振りで説明をした。
「おっきいって、こーーんくらい?」
イロも負けじと手を大きく広げた。
「ううん、もっともっとよ。こーーーーーーんくらい!」
二人は顔を見合わせてコロコロと笑い合う。そのときだった。
ぶおぉぉぉぉぉぉ!
突然、洞窟の奥から大きな音が響いてきた。イロは驚いて体が固まってしまった。
「何?今の音。」
「音?そんなのしなかったけど。」
べリルには聞こえていない。
ぶおぉぉぉぉぉぉ!
「べリル…。さっきのランタン借りて行ってもいいかな?」
この音は、きっと精霊の声だ。イロは直感的にそう思った。
「イロ、一人で行くの?危ないよ。」
「うん。」
「戻れなくなるかもしれない。せめて途中まで…。」
「大丈夫。分かれ道に来たらべリルが教えてくれたみたいに目印を置いて進むから。」
ここからは塗師として、イロが一人で進んでいくべきなのだろう。
「…わかった。気をつけてね。ここで待ってる。」
ベリルはイロにランタンを渡した。

ぶおぉぉぉぉぉぉ!
また声が聞こえた。どうやら向かって右側の道の奥から響いてくるようだ。
この先は道も狭くなるからと言われ、インキ瓶の入ったカバンだけを持って洞窟のさらに奥へ向かっていく。
分かれ道に来るたびに道の奥から、「こっちだよ」と言わんばかりに声がしたので、それを頼りに進んで行った。道に目印を置くのを忘れない。

イロが進むごとに岩の中の宝石たちもざわざわと輝きだす。
徐々に道幅も天井も狭くなっていき、立ったままでは通り抜けられないような穴が現れた。
その先から声がする。イロはランタンを穴の前に置き、這いつくばって進んでいく。
真っ暗で何も見えない。自分の呼吸音しか聞こえない。どれくらい進めばいいんだろう。
本当にこの道で合っているのだろうか。あの声は精霊なのだろうか。

息も上がってきたころ、星空のような光が見えてきた。
ようやく穴を抜けると、大きな空洞に出て、そこに精霊がいた。
精霊は、待っていたよと言わんばかりにじっとイロを見つめてきた。
べリルが言っていたように、大きなトカゲのような姿をしているが、目はくりりと丸く愛らしい顔つきだ。
「精霊さん?」
ぶおぉぉぉぉ。
返事の代わりに精霊は大きく息を吐いた。
「私、イロといいます。塗師のインキをもらいたくてやってきました。」
そう言ってカラの瓶を差し出すイロ。
それを見た精霊は何も言わずくるりと後ろを向いた。
一瞬、拒否されたのかと思ったが、精霊の背中にはキラキラと光る宝石がいくつもついていて、その中の一つがひときわ大きな輝きを放っていた。
「その光ってるのが精霊のカケラ?」
イロが尋ねると精霊は、後ろを向いたまま少しだけ首をひねりイロのほうを向いた。
ゆっくりと近づき、その光っているところに手を伸ばす。
イロがそっと触れると、精霊はブルブルと身震いをし、ピンとはじかれたカケラが飛んだ。
あわてて両手ですくうように受け止める。カケラはコロリとイロの手の中に落ちた。
精霊はイロがカケラを手に入れたことを確認すると、満足気に洞窟の奥へと進んで行った。
「ありがとう!精霊さん。」
持ってきた瓶の中にチリリとカケラを入れる。湧き出したのは深い紫色のインキだった。

来るときにつけた目印を頼りに、慎重に道を選び、なんとか迷わずにべリルの待つ分かれ道まで戻ることができた。
どれくらいたっただろう。
イロが到着したときべリルは、落ち着かない様子で同じところをぐるぐると歩いていた。
イロが声をかけるとべリルは駆け寄ってきてイロに抱きついた。
「イロ!無事でよかった。全然戻ってこないんだから!本当に心配したんだからね。」
「ごめんね。」
「インキは?もらえた?」
「うん。ほら、これ!」
誇らしげにインキ瓶を見せる。
「キレイな色!すてきね。」
「ありがとう、べリル。ベリルのおかげで手に入れられたよ。」
「私たちが協力し合ったからね。」
「そうね、二人の力ね!」
そう言って、二人は笑い合った。
「よし!じゃあ帰ろう!」
「そうだね!帰ろう!」
二人は手をつないで出口に向かって歩き出そうとした。
すると、ぶおぉぉぉぉぉぉ!と洞窟の奥から声がした。
次の瞬間、目があけられないほどの強い風が吹き荒れた。
風が収まり二人が目をあけると、そこはべリルの家の前だった。
あたりは真っ暗で、家の窓からは明かりが漏れ、野菜やお肉のぐつぐつと煮えるいい匂いがしていた。
何が起こったのかわからなかったが、戻って来られたことだけはわかった。

帰ってこられた安心感からか、ずっと緊張状態だった体の力がぬけ、二人とも手をつないだままその場にへたりこんだ。もう一歩も動けそうにない。
二人は顔を見合わせると、どちらからともなく声を上げてわんわんと泣き始めた。

座り込んで泣くイロとベリルのイラスト

二人の泣き声に気づいたべリルの両親が家の中から飛び出してきて、べリルを抱きしめた。母親に涙を拭ってもらうと、べリルはさっきまであんなに泣いていたとは思えないお姉さんぶった表情でイロを紹介した。
べリルの母親はイロのことも抱きしめて歓迎してくれた。
「じゃあ、みんなでごはんにしましょう。その前に二人でお風呂に入ってらっしゃい!」
べリルとイロは「はーい!」と元気よく返事をし、泥と涙でくちゃぐちゃなお互いをからかい合いながら仲良くお風呂へ向かった。
そんな二人の様子はまるで昔からの親友のようだった。

雪の国

夜更け、何かに呼ばれた気がしてふと目が覚めてしまったイロは、ベッドをそっと抜け出した。横ではベリルがスースーと規則正しく寝息をたてている。鳥も虫も眠りについた静かな夜。窓をすこし開けると、真っ暗な空にぽつぽつと星が光っていた。月もぼんやりとしていて明日は天気がよくないのかもしれないとイロは思った。
ベッドわきに置いていたカバンを開けて、今まで集めてきたインキ瓶を取り出す。これまでの五つの国の精霊は最初の夢に出てきた精霊とは違っている。イロは夢にみた内容を思い出した。
『心配することはないよ、イロ。君に新しいインキ瓶を授ける。旅してそれぞれの国の精霊に会い、インキ瓶を満たしてもらっておいで。』
旅に出た理由は、あのまま家にいたくなかったというのもあった。あのときのお父さんとお母さんの表情を鮮明に覚えている。
勢いで家から出て、旅の途中何度も心が折れそうになったが、なんとかここまでこれた。もしかしたら、お父さんが行ったほうが早かったかもしれない。でも、そうしたら夢に出てきた精霊からはインキがもらえない気がした。理由は説明できないけれど、イロはあのときたしかにそう感じていた。
カラのインキ瓶はあと一つ。次の国に行けばあの精霊に会えるのだろうか。
次に向かうのは雪の国。次の国でイロの旅は終わるはずだ。
「お父さんもお母さんも心配してるかな。もうちょっとで帰れるよ。」
そう口に出すと、うれしいような、寂しいような、緊張と安心が交互にイロを包んでいく。
そのまま考えていると涙が出そうになり、急いでインキを元に戻し、ベッドにもぐり込み頭まで布団を被るとぎゅっと目を閉じた。

翌朝、イロはべリルとべリルの両親に何かお礼がしたいと申し出た。
そんなことは気にしなくていいと言ってくれたが、このままでは自分の気が済まないとイロが食い下がったので、そこまで言うのならばとべリルの母親がカーテンに色を塗ってほしいと申し出た。イロは満面の笑みで引き受けた。

べリルの父が仕事仲間に頼んでくれて、雪の国まで船に乗せてもらえることになった。
「あんないいカーテンを仕上げてもらったんだ。これくらいしてもまだおつりが出るさ。」
そう言ってべリルの父はガハハと笑った。
雪の国は中央の国と隣り合う国だが、イロが住んでいる地域からは離れているためイロの父ですらうわさ程度でしか状況を知らないと言っていた。その国境は山々に隔てられていて、中央の国からでは大人でも越えるのが難しい。そのため、宝石の国から船で向かうのが一般的だそうだ。

船の上から見る雪の国は、まるで雲の中にでもいるかのように白く煙っていて陸地が見えず、上陸はさぞかし難航するだろうと思われたが、異様なくらいに波は穏やかで、進むごとに視界もくっきり開け、すんなり上陸することができた。
イロを降ろすと船はすぐにまた海に出ていき、すぅっと霧の中に消えていった。
見渡す限りの雪景色で港に人は誰もいない。音もなく雪だけがしんしんと降り続けている。べリルが貸してくれた防寒着とブーツはとても暖かくイロを包み込んでくれて、ほかの誰の痕跡もない雪原にイロの踏みしめた足跡だけがぽつぽつと残っていく。

雪の中を歩くイロのイラスト

街の中心と思われるところまでやってきたが、建物はあるのに人影はまったく感じられない。途方に暮れそうになったとき、少し向こうに煙突から煙の出ている建物を見つけた。建物に近寄ってみると、雪が積もってほとんど読めないが飲食店と思われる看板が軒先にぶら下がっていた。扉を引いてみると、何の抵抗もなくすっと開き、座席の片づけられた店内の真ん中ではパチパチと暖炉から音がして、その前に置かれた揺り椅子に背中を小さく丸めたおばあさんの後ろ姿が見えた。
「あの……。」
イロは恐る恐る声をかける。ゆっくりと揺り椅子に座っていた人物が振り返った。
「おや、嬢ちゃん、どうしたんだい?」
そこにいたのはひどく腰の曲がったおばあさんだった。がらんとした店内におばあさんの低く柔らかい声が響く。
「あの、えっと、わたし……。」
「そんなとこにつっ立ってないで、こっちにおいで。火に当たるといい。寒かったろう。」
「えっと……お、おじゃまします。」
イロはゆっくりと暖炉に近づき、近くにあった椅子を引き寄せると老婆の隣に座った。
「これはこれは珍しいお客さんだ。悪いが嬢ちゃん、そこのヤカンにお茶が入ってるから勝手にやっておくれ。すまないねぇ。足腰も目もすっかりガタがきちまってて。」
「あ、ありがとうございます。いただきます。」
そう言ってイロはあたりを見まわしカップを二つ見つけるとお茶を注ぎ一つは老婆に渡した。
「おやおや私の分まで。気が利く子だ。ありがとう。嬢ちゃん名前は?」
「わたし、中央の国から来ました、イロといいます。」
「ほう、嬢ちゃん、さては塗師だろう?」
「え?あの、えっと、まだ見習いですが。……でもどうして?」
「この国が雪に閉ざされてからだぁれもいなくなっちまって、時折やって来るのは塗師くらいだからさ。精霊様にインキをもらいにきたのかい?」
イロは老婆に、夢の中の話、今までの事の成り行きをすべて話した。時折相づちをうってくれる老婆の声はとても柔らかく落ち着いていて、どこか懐かしく、自分でも驚くほどすらすらと話すことができた。
「あの精霊様が……。そうかそうか。」
おばあさんは何か考え込むように息をはくと、カップのお茶を一口すすった。
「嬢ちゃん、精霊様を助けてやっておくれ。ずっと一人ぼっちであの塔にいる精霊様を。」

おばあさんの話では、この国はかつて星の国と呼ばれる活気のある国で、夜には、宝石箱をひっくり返したような星空が広がる美しい国だったそうだ。精霊は占星術を使って街のみんなの相談に乗り、助け合って暮らしていたが、ある日、精霊の力を独り占めしようとした富豪が街はずれの小高い丘に高い塔をつくり、そこに精霊を閉じ込めた。精霊の力をもってすればそんな塔など簡単に壊せただろうが、そのまま精霊が塔から出てくることはなく、塔の扉は完全に閉ざされてしまった。それからというもの、美しかった国は雪に覆われ誰一人いなくなってしまった。今ではその富豪もとうの昔に亡くなり、精霊は一向に外に出ては来ず、インキをもらいにきた塗師にも会わず、おばあさんも心配していたそうだ。
「精霊様は人間が嫌になってしまったのさ。」
おばあさんは何かに耐えるように目をつぶった。
「私のせいなんだ。私があのとき、塔に精霊様を連れて行ったりしなければ……。本当に申し訳ないことをした。あのときはまだ子どもで、大人たちが何を企んでいるのかわからなくてね。私がもっと慎重になっていればこんなことにならなかったのに。何度も塔を訪ねたが、私では扉は開けてもらえなかった。今となっては、私はもう塔にたどり着けそうにない。嬢ちゃん、どうかお願いだ。精霊様を助けてやっておくれ。嬢ちゃんだったらきっとできるはずだ。」

会話をするイロとおばあさんのイラスト

おばあさんは、イロの手を取る。イロはそっとおばあさんを抱きしめた。
「わかった。とにかく行ってきます。わたしでどこまでやれるかわからないけど。」
おばあさんはありがとうと言いながら、自分が首から下げていた鍵をイロに渡した。塔の入り口の鍵だと言う。イロはそれを大事に右のポケットに入れた。

塔までの道を教わり、分けてもらった温かいお茶をカイロ代わりに雪の中を歩き出した。
先ほどよりも風がでてきて、視界がさらに悪くなっていた。塔は小高い丘の上にあり、まっすぐ行けば着くとのことだったが、塔の影すら見えない。一歩一歩踏みしめるようにイロは進んでいく。森の国でなかなか精霊を見つけられず、ひたすら歩きまわったことを思い出した。旅に出て初めての国。薄暗い森の中を歩いていく不安と、自分がしてしまったことへの後悔。そして何より、一人で塗師として色をつけなければならない焦りと緊張。あのときは筆を握りしめたまま固まってしまっていた。
すごい昔のことのようにも、つい最近のことのようにも感じるなぁ、とイロは少し笑った。あれからいくつか塗師として色をつけてきたが、あのとき感じた不安がなくなったわけではない。でも、この旅に出なければ出会えなかった人たち、気づかなかった感情がたくさんあった。そのおかげで、塗師として少しは成長できたように思う。家に帰ったら家族に話したいことがたくさんある。
イロが顔を上げると少し向こうに、塔のてっぺんが見えた。風はさらに強くなり吹雪になっていたが、あともうひと踏ん張りだと、イロは歩を進めた。

丘をのぼり塔の前に着いた。入り口がわからず塔のまわりをぐるりと回ってみると、半周したところで鉄の扉を見つけた。鉄の扉には鍵がかかっていた。イロはおばあさんから受け取った鍵をポケットから取り出し差し込もうとした。しかし鍵は差し込めなかった。この扉の鍵ではないのかと思い、ほかの扉を探そうとしたところで、扉がギィッと音をたてて勝手に開いた。
イロは恐る恐る扉の中に入ってみた。しかし誰もいないようだ。塔の壁には、ぐるぐると這うように長い階段が続いていて、ほかには何もない。誰かいませんかと声をかけてみたが反応はない。昼間なのに雪のせいで薄暗い塔の階段を、イロは覚悟を決めて上りだす。一段一段、慎重に歩を進める。徐々に足が重くなっていった。もう少しで上りきろうとしたところで、塔の入り口と同じような鉄の扉が視界に入った。きっとこの奥に精霊がいるに違いない。扉の前に立ち、ドアノブに手を伸ばそうとしたところで、ガチャリと音をたてて扉が少しだけ開いた。中に入れということだろうか。イロは扉を開け中に入る。
部屋の中は、室内だというのに肌寒く殺風景だった。真っ黒なカーテンがかけられ窓際には立派な望遠鏡が置いてあり、その前にぽつんと椅子があった。そこに誰かが座っていた。
「やっと来たね。待ちくたびれたよ、イロ。」
椅子から精霊と思われる人物がゆるりと立ち上がり、イロのほうを向いた。すらりとした背の高い、真っ黒な毛色をした犬みたいな見た目の精霊だった。黒いローブを羽織っており、首から星のネックレスを下げている。
それはやはり夢で会ったイロにインキ瓶を授けた精霊だった。しかし、夢の中よりもどこかつらそうに見える。肩につかないショートの黒い髪もすこしぼさぼさで色つやもよくない。
それでも気品を感じるのは、彼の所作の一つひとつがきれいだからだろうか。
「ここまでの旅は楽しかった?」
精霊はうっすらと笑みを浮かべながら問いかけた。
「楽しかった…です。大変…だったけど、いろんな人や精霊さんに会えたし…。そんなことより、精霊さん、なんだかつらそう。どこか悪いの…?」
イロが心配そうに問いかけると、精霊はつまらなそうな顔をしてため息をついた。
「見ていたよ、きみの旅を。本当におせっかいな子だ。」
精霊はやれやれと肩をすくめると、窓際の椅子に座り直した。
「行く先々でいろんなことに首をつっこんで…。大したものだよ。まあでも、水の国の精霊がきみに心を開いたのは驚いたな。ずっと引きこもった陰鬱なやつが、あんな顔をするとはね。」
精霊は鼻で笑った。
「なんでそんな言い方…。それより見てたって、どういうこと…?」
「言葉の通りさ。ここにある望遠鏡を少し改良して人々の生活をのぞけるようにしたんだ。」
「そんなことできるの?」
「僕は強いからね。ああ、あと塗師が使うインキ瓶には精霊のカケラが入っているだろう?そのカケラはそれぞれの精霊の意識につながっているから、そこから見ようとすれば見えるのさ。」
「インキ瓶から…?」
「そうさ。そのインキ瓶から人を操ることもできる。」
精霊は意味ありげに笑いながらイロを見た。
「操るって…。それじゃあ、あの日夢でインキ瓶からした声って…。」
「ああ。あれは僕がやった。」
精霊はなんてことのないように口にした。たしかに今思えば、インキ瓶からした声はこの精霊の声だった。あのときは意識がもうろうとしていたから気づかなかった。イロはこぶしをぎゅっと握った。
「なんであんなことしたの?あの夢のせいでわたし…!」
「なんでって言われてもね。気まぐれだよ。しいて言うなら、平和ボケしてそうな見習い塗師を応援してあげようと思って。」
精霊は、優しいだろう?とでも言わんばかりの挑発的な笑みを浮かべる。
イロは悲しくなった。あの夢の精霊は、何か理由があってイロにインキ瓶を渡したのかと思ったのに。
「インキ瓶を壊させたのも、カラのインキ瓶を渡したのもあなたなのね。」
「だからそうだと言っている。」
精霊があきれたように言うのを見て、イロは頭に血がのぼった。
イロはカバンから勢いよくインキ瓶を取り出すと、精霊のもとまで大股で近寄り、ぐいっとインキ瓶を精霊の顔の前に差し出した。
「平和ボケした見習い塗師で悪かったわね!これで最後のインキよ。早くちょうだい。」
「……。」
「無視しないでよ。」
精霊はインキ瓶から顔を背けて無言のままだった。イロも譲らず、しばらくそのままだったが、ふと精霊の額に汗が滲んでいるのが見えた。
部屋は肌寒いくらいなのに、なんで汗なんて…と改めて精霊を見ると、心なしか椅子の肘掛けに置かれた手が震えていた。聞こえてくる鼻息も荒い。
「あなたやっぱり体調悪いんじゃ…。」
「うるさい。おせっかいはもうたくさんだよ。そんなこと僕は望んでいない。もう人間は信用しないんだ。」
目の前に置かれた望遠鏡を見ながら精霊はつぶやくように言った。イロはここに来る前に会ったおばあさんの話を思い出した。あまりの出来事に頭に血がのぼっていたが、本当にただの遊び半分でイロをこの塔に呼び出したんだろうか。
「約束通りインキはやる。インキが手に入ればそれだけでいいんだろう?それが目的でここまで来たんだから。さあ、インキ瓶を貸してごらん。」
精霊の様子に戸惑っている間に、精霊がイロの手からインキ瓶を奪った。みんながやってくれたようにカケラを瓶の中に落とし、手をかざす。すると瓶の底からコポコポと湧き出す……はずだった。だが、インキは途中まで瓶に溜まるとすぅっと透明になり、やがて霧になって消えた。何度繰り返しても同じでインキは瓶にはたまらなかった。
「やっぱり体調悪いのね…。熱は?」
イロは精霊のおでこに手をやった。
「すごい冷たい…!」
まるで氷のような冷たさだった。イロは驚いて手を引っこめた。
「勝手に触るな…。」
「体温めないと…!とりあえず、ほら!これ着て!」
イロは自分が着ていた防寒着を無理やり精霊に羽織らせた。マフラーも首にぐるぐると巻きつける。イロはカバンをあさると、薬を取り出した。熱があるわけではないが、もしかしたら効くかもしれない。
「お薬飲める?」
「人間の薬は効かないよ。」
「飲んだことあるの?」
「ない。そもそも精霊は人間みたいに熱を出したりしない。」
「でも体調悪いんでしょ?」
イロは部屋を見渡したが、横になれそうな場所もない。部屋の右側に、塔の入り口と同じような星のマークが描かれた扉が見えた。
「うるさい。それもこれも人間のせいだ。こんな塔なんてつくるから。」
精霊はぶつぶつと文句を言っている。イロはカバンから、おばあさんからもらったお茶を取り出した。そういえば、この塔は精霊を閉じ込めるためにつくったと聞いた。精霊は、この塔のせいで出ないわけではなく、出られなくなってしまったということだろうか。
「ここに来る前に、おばあさんに会って話を聞いたわ。精霊さんを閉じ込めようとした人がいるって。」
「そうさ。この塔に僕を閉じ込めて、僕の力を独り占めしようとするなんて。人間は欲深い生き物だ。」
「でも精霊さんの力なら出られるはずだって言っていたわ。」
「最初は僕もそう思ったよ…。ただ、そのインチキ金持ちは塗師を引き連れてやってきた。そいつがまあまあ仕事のできるやつだったらしい。人間たちを困らせてやろうとこの塔に閉じこもっていたら、徐々にこの塔から力を奪われていた。おかげでこのザマだ。」
「塗師がかかわっていたの?精霊さんがいなければ塗師はインキがもらえないのに、なんでそんなことを…。」
イロは精霊の話に愕然とした。そんなことがありえるのだろうか。
「女の子がいたんだ…。」
「女の子…?」
精霊は腕で目を覆い隠し、とぎれとぎれに話し始めた。
「ちょうど今の君と同い歳くらいの女の子がいてね…。星が好きで…。しょっちゅう僕のところにやってきては、あれこれ質問してきた。僕も星は好きだし、いろいろ教えてやるとうれしそうに目を輝かせて、大げさなくらい驚いたり喜んだり…。まあ、悪い気はしなかったからかまってやっていたのさ。」
思い出しているのだろうか。精霊の表情が少し柔らかくなった。
「だけど、そんなある日、アイツがやってきて、この塔を建てた。そいつは、僕とその女の子が仲良くしているのを見て利用できると思ったんだろう。星がよく見えるように望遠鏡を置いたとかなんとか言って、女の子がこの部屋に僕を連れてくるように仕向けたのさ。」
「そんな…。」
イロは宝石の国で会った役人に強引に腕を引っぱられたことを思い出した。ベリルがいなかったらわたしも利用されていたんだろう。
「それからずっとこの塔の中さ。」
「この塔から出る方法はないの?」
「この塔を壊せば出られる。」
「この塔を…?どうやって…。」
「あの扉の先の階段を下っていけば、この塔の地下に行ける。そこに塔の動力部がある。それを壊せば塔の呪いは解ける。」
「そうすれば精霊さんは自由になれるのね?」
「…そんな簡単に信じるのかい?また夢のときのように君をだまそうとしているのかもしれないよ。」
精霊は腕をどけてイロの顔を挑発するように見た。
「嘘なら噓でいいわ。どっちにしろ精霊さんはここから出られるってことでしょう?まあ、こんな体調悪そうなのに噓をつくとは思えないけど。」
精霊は何も言わなかった。
「じゃあ、行ってくるね。必ず壊してみせるから。そうしたらここを出て、おばあさんに会ってあげて。あの人とっても後悔していたわ。」
「…わかった。約束しよう。」
「ありがとう。」
イロはカバンを背負い、精霊が指さした扉の前に立つ。ドアを開けようとした手が少し震えていたが、ごまかすように勢いよく扉を開けた。
精霊の言ったように、下に続く階段があった。あたりは真っ暗で何も見えない。宝石の国でベリルからもらったランプをつけた。なにかあったときのためにとベリルがくれたのだった。
「ありがとう、ベリル。」
洞窟のときとは違い、横に友達はいないけれどイロは一人じゃないと思えた。
階段を下っていくと、また扉があらわれた。鍵が閉まっていて開かない。イロはポケットから、おばあさんから預かった鍵を取り出した。鍵穴に差し込むと、カチッと音がして開く。開いた扉の向こうは幾千もの星が輝くまるで夜空の中にいるような不思議な空間だった。
「きれい…。」
足元を見ても床はない。イロは思い切って足を踏み入れた。足を動かしてみると、なんとなく踏むことができる足場のようなものは感じるが、ふわふわとして頼りなく、雲の上に立っているようだった。
「どこに行けばいいんだろう…。」
あたりを見渡すが何もない。すると、遠くから汽笛と列車が走る音が聞こえてきた。

イロと汽車のイラスト

列車がイロの前に止まった。やってきたそれは、本物の列車ではなく、イロが小さい頃、父親がつくってくれた木製のおもちゃの列車にそっくりだった。
先頭の車両からウサギのぬいぐるみが降りてきて、イロにお辞儀をすると手招きをした。どうやら列車に乗れということらしい。
これは精霊の魔法なのだろうか。ウサギに驚きつつも、おもちゃの列車にまたがる。イロが無事乗り込んだのを確認したウサギが汽笛を鳴らし、列車はゆるゆると走り出した。線路もない星空をぐんぐんと進んで行く。
「ウサギさん!これどこに向かってるの?」
先頭にいるウサギに呼びかける。ウサギはイロを振り返ることなく前を指した。とにかくおとなしく乗っているほかはなさそうだ。どんどん進んで、周りに見える星々が流れ星のように通り過ぎる。そのうち、イロの目の前には、自分でも覚えていないような小さい頃の景色が現れた。父親の仕事道具を勝手に触って叱られたこと、キッチンで料理をしながら振り返りイロに話しかける母親の姿、旅に出たあの日のこと……今までイロが見てきたものが走馬灯のように流れていく。しばらくすると場面が変わった。満点の星空の下、精霊がにこやかに話している姿が見えた。精霊の横にはイロによく似た少女がいる。あのおばあさんだろうか。その裏で彼を塔に閉じ込めようと企む大人たち。そうとは知らずに精霊の手を引いて塔の中に入って行く少女の姿。望遠鏡に触れた途端に倒れ込む精霊。自分がしたことの本当の意味を知り泣き崩れる少女。夏だというのに雪が降り積もり困惑する街の住人たち……これは精霊の記憶なのだろうか。精霊の怒りと悲しみがイロに伝わってきて胸が痛くなり息苦しくなる。鍵を握りしめ一人涙するおばあさんの姿が見えた。
「大丈夫。絶対に元通りにする。だからもう泣かないで。」
イロはカバンから塗師の道具を取り出した。夜空に映しだされる過去の映像を変えたくて色を塗っていく。過去は変えられないが、もしここが塗師によって呪われた空間ならば、塗ることで何か対抗できるかもしれない。何の意味もないかもしれないが、イロはがむしゃらに色を塗っていく。
イロはお父さんが大好きだった。言葉数は少ないけれど、塗師として働くお父さんの背中を見て、自分も塗師になりたいと思ったのだ。お父さんはいつだってインキを大事に扱い、精霊に敬意をはらっていた。誰かを喜ばせるために朝から晩まで毎日働いているお父さんを知っているからこそ、誰かを傷つけるためにインキを、精霊を利用しようとした人たちが許せなかった。
そうやって色を塗っていると、星が呼応するように輝きだした。すると光に照らされて、何かがチラっとイロの視界の端に映った。その方向に目を凝らすと、扉のようなものが見えた。
「ウサギさん!あそこに向かって!」
イロが指をさすと、ウサギは待っていましたと言わんばかりに汽笛を大きく鳴らした。列車が方向転換をし、さらに加速する。
近づくとそれは塔の入り口にあった鉄の扉と同じものだった。扉の前で列車が止まる。イロは列車から降りると、その扉を開けようとした。だが鍵がかかっていて開かなかった。この扉の奥に、きっと何かがある。イロはそう確信して、この扉の鍵がどこかにないかあたりを見渡した。だがこんな広い空間で鍵を探すのは難しい。イロが焦っていると、右のポケットがかすかに光りだした。イロはポケットから鍵を取り出す。塔の入り口では使えなかったおばあさんから預かったもの。イロはそれを扉の鍵穴に差し込んだ。
するとガチャリと音をたてて扉が開いた。
「やった!ここの鍵だったのね。」
でもなんで、おばあさんがここの鍵を持っているのだろう。イロは不思議に思いながら扉の中に入ると、そこにあったのは、真っ黒なインキが入った瓶だった。
「これって…。」
イロは恐る恐るそれを手に取った。瓶を振ってみると、濁ってドロドロとしたインキがうごめいた。中に何かが入っているのが見える。
「やっぱり…。これ星の精霊さんのインキだわ。」
中に入っていたのは精霊のカケラだった。星の結晶のような形をしたそれは、黒くよどんでいて、何か嫌な感じがした。きっと、このインキ瓶に塗師が何か細工をしたに違いない。
インキは、塗師が扱う専用のインキ瓶に精霊のカケラを入れることで使える。インキ瓶も、色を塗るための筆も、一つひとつ職人が丁寧につくっている特殊なものだ。
精霊のカケラと、精霊の意思はつながっていると言っていた。このインキを元の状態に戻すことができたら精霊の力を取り戻せるかもしれない。
イロはインキ瓶のフタを開けて、精霊のカケラを取り出そうとした。しかしフタはびくりともしない。インキ瓶を壊す方法はないだろうか。イロはカバンをあさり何か使えそうなものがないか探したが、役に立ちそうなものはなかった。時間ばかりが経過する。イロは焦り始めた。
そういえば、とイロはおばあさんから預かった鍵を手に取った。イロはてっきり、この塔に入るための鍵だと思ったがそうではなかった。ここの扉の鍵を、なぜおばあさんは持っていたのだろう。イロは鍵を調べ始めた。鍵にしては大きなつくりのそれは、先端部分がとがっており、持ち手部分の丸い部分に宝石のようなものがはめ込まれていた。イロはなんとなくその宝石の部分を軽く押したら、カチャリと音がして、鍵がパカッと左右に開いた。すると紙が一枚ひらりとイロの足元に落ちた。
「なんだろう。」
イロは、それを拾い上げると、折りたたまれていた紙を開いた。それは精霊が映った写真だった。古いものなのか写真は日焼けしており、鮮明には見えなかった。どこかの建物の前だろうか。レンガ造りの建物の前で、すました顔をした精霊と少女が写っていた。この少女はあのおばあさんだろうか。茶色く日焼けしているせいで、はっきりとは見えなかった。写真をひっくり返してみると、裏にメッセージが書かれていた。
「『色あせた日々。』どういう意味だろう?」
イロは鍵をもう一度調べた。しかし写真が入っていた丸い空洞から、鍵の先端まで一直線の溝があるだけで、ほかに気になる点はなかった。写真に目を戻す。
「なんだか、寂しそうだな…。」
イロはその写真の少女が泣いているように見えた。実際には少女は笑っているが、イロにはなぜかそう見えた。色あせた日々が何を指すかわからないが、写真を見ているとなぜか胸が切なくなる。おばあさんから預かったものに勝手に色を塗ったら怒られるかもしれないが、イロは気づいたら筆を握っていた。建物の色も、二人の服の色も、イロは何も知らなかったが色を塗る手は止まることはなかった。この写真の二人が、また仲良くできますように、元通りになりますようにと願いを込めて塗った。
イロが色を塗り終えて顔を上げると、突然写真が光り出した。写真が宙に浮かび、イロの目線まで上がる。ひときわ強く写真の中央部が光ったと思うと、写真の中から星の結晶のようなものが出てきた。
「これって、星の国の精霊さんの…?」
イロはそれを優しく両手で受け取った。キラキラと光るそれはとてもきれいで、星そのもののようだった。イロが塗った写真はいつの間にか消えていた。
イロはそれをカラのインキ瓶に入れた。すると、そこからコポコポとインキがあふれ出す。夜空のようなキラキラと光る黒のインキだった。
「きれいな色…。」
精霊さんにぴったりの色だ、とイロは思った。
「もしかしたら、このインキを入れれば…。」
イロはドロドロと濁ったインキが入った塗師のインキ瓶に目をやった。
このインキを入れれば、中和できるかもしれない。イロは筆を取り出し、試しにインキ瓶のフタに一滴たらしてみた。
するとフタはボロボロと崩れて砂のように崩れていった。イロは中にインキを少しずつ入れていった。すると少しずつドロドロしたインキが色を変えていくが、中のカケラはいまだに黒く濁っていた。
「どうしよう。これじゃキリがない…。」
インキは手に入れた。しかしこれだけでは足りないのかもしれない。
「もしかしたら!」
イロは鍵を手に取った。塗師にとって重要なのは、インキとインキ瓶と、そして筆。
インキ瓶は星の国の精霊からもらったもので、インキは今、手に入れた。残るは筆だけだった。イロの持っている父からもらった筆ではいけないのかもしれない。イロは鍵の先端を見た。不思議な形だなと思っていたが、それはガラスペンのように先端が尖っており、描くことができそうだった。
「この丸いところにインキを入れて…。」
イロはインキを慎重に入れて左右に開いていた鍵を閉じた。カチッと音がする。先端部分を下にすると、インキが滴ってくるのが見えた。イロはそれを呪われたインキ瓶に差し込んで、その先端で濁ったカケラに触れた。すると、触れた先から光がこぼれ始めた。鍵の持ち手の丸い部分に埋め込まれた宝石も呼応するように光り出した。今まで濁っていたのが嘘のように星の結晶のカケラは白く輝いていた。中のインキも正常に戻っていた。
「やった!元に戻った!」
イロが喜んでいると、まるで下から突き上げるように地面が揺れた。驚いてあたりを見渡すと、入ってきた扉はボロボロと崩れ始め、星が瞬いていた。
扉の向こうから、汽笛の音がした。イロはハッとして、荷物もまとめて扉の外に勢いよく出た。ウサギは早くしろと言わんばかりに、列車に乗るように促す。イロが急いで列車にまたがると、列車は急加速をして走り出した。イロは後ろを振り返る。空間ごと崩れ落ちるかのようにガラガラと音をたてて星が一つ、また一つと落ちていく。
呪いが解けたのだ。イロは前を向いた。するとどこから来たのか、いつのまにかたくさんのおもちゃたちが乗っていた。ウサギたちは太鼓やラッパを手にして、楽しそうに思い思いの楽器を鳴らしている。
「よかった…。これで終わりなのね。ありがとう、ウサギさん。」
しばらく走ったところで最初に入ってきた扉が見えてきた。列車はそのまま扉に突っ込む。扉の外に出ると、そこは精霊がいた部屋だった。
「精霊さん!」
精霊は部屋の真ん中に立っていた。イロは列車から飛び降りて精霊に駆け寄った。会ったときとは違って、黒い髪の毛が夜空のようにキラキラと輝いていた。どうやら力を取り戻したようだ。
「ありがとう、イロ。よくやったね。」
「もうどこも、つらくない?」
「ああ。むしろ暴れまわりたいくらい元気さ。」
精霊はやる気満々な顔をしている。見た目に反して子どもっぽい人だなと、イロは笑った。
「さあ。元通りとなれば、こんな塔とはおさらばさ。早く出よう。」
精霊がイロの肩を抱き寄せたかと思うと、次の瞬間外にいた。外は雪がやんでおり、きれいな夜空が光り輝いていた。もう雪の国なんて呼ばれることはないだろう。
塔がボロボロと崩れ落ちた。あたりを見ると、ウサギたちも外に出ていた。
「イロ、ありがとう。」
「ううん。精霊さんも元気になってよかった。」
「君を選んだ僕の目に、間違いはなかったようだね。」
「何それ。」
イロはクスクスと笑った。
「精霊さん、これ。」
イロは鍵を精霊に渡した。おばあさんから預かったものだ。なんとなくだが、これはイロが持っているより、精霊が持っているべきだと思った。
精霊は鍵を受け取ると、一瞬驚いたような顔をした。
「星、きれいだね。」
イロは夜空を見上げた。二人の頭上には空いっぱいの星が瞬いている。

星空を見上げるイロと精霊のイラスト

「ああ。そうだね。」
精霊は鍵を大事に握りしめると。ローブのポケットに入れた。

今、イロのカバンの中には、森の国、花の国、海の国、水の国、宝石の国、星の国、六つの国々でもらったインキがしっかりと収められている。

イロのインキを集める旅は、これで終わった。
長いようで、あっという間だった。イロと精霊はしばらく、頭上にきらめく星を静かに眺めていた。

エピローグ

インキ集めの旅から5年が経った。

イロは、見習い塗師として父親のもと、たくさんの依頼をこなしていた。忙しいけれど、充実した日々を過ごしていた。そして依頼をこなす一方、イロが持ち帰った森の国、花の国、海の国、水の国、宝石の国、星の国、6つの国々でもらったインキを使ったペンの開発に勤しんでいた。

そして今日、ようやくそのペンが完成した。
イロはそのペンで、早速精霊たちに手紙を送ることにした。
「みんな、どうしているかな。」
イロは窓の外を見る。
「おい、まだか。」
「待って!まだ終わってないの。」
「相変わらずとろいな。」
星の国の精霊が、やれやれとわざとらしく肩をすくめた。精霊はあの後、イロの両親に会いたいと言ってついてきたのだった。会って何をするつもりなのか、と思ったら、精霊は意外にもイロの両親に頭を下げ、危険な目に合わせたことを謝った。精霊に頭を下げられるなんて、と両親はあわてふためいていた。
「ふふふ。」
「なにを笑っている。早くしないとおいていくからな。」
そう言いながらも、近くにあった椅子に座ってちゃんと待ってくれようとしているのを見て、イロはバレないようにまたくすりと笑った。素直じゃないんだからと思いながらも、待たせるのは良くないと、手紙を書くのを再開した。
この手紙を書いたら、イロと精霊はまた旅にでる予定だった。またみんなに会える。イロは胸を躍らせた。開け放った窓から、気持ちのいい風が吹いた。